私が中学三年生であったから、今から三十年近く前の事になるが、当時私の通っていた中学の国語の授業で「美しい文章の書き方」という時間があった。

 その授業では幾つかの有名な小説のセンテンスを例として引用しながら授業を進めていた。時間の締めくくりに先生は、この文章は最も美しい文章の一つだと思いますと前置きし、日本国憲法の前文を読み上げた。そして「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分は秀逸であると激賞した。

 私を含め多くの級友は、その授業に於ける先生の高揚ぶりに違和感を持ち、理念の素晴らしさと文章の出来栄えを混同しているのではないかと密かに先生の姿勢に疑問を持った。

 当時新憲法とよばれた現行憲法も世界の中では古い憲法となり、まったく改正していない希有な存在となった。占領軍によって作られたという誕生の問題にもかかわらず、指一本触れる事が出来ない情況が続いたのも、私の中学の国語教師が懐いた様な、宗教的崇拝に近い信仰が―そうでなければあのぎこちない訳文を国語教師が美しい文書として教える事は無いであろうしー存在したからにほかならない。

 さらに付け加えれば第七条の四には「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と天皇の行う国事行為を挙げているが、総選挙は衆議院の選挙を意味しており正確さを欠く。これは、GHQが当初一院制が頭にあり、その結果の用語の混乱と言われている。又、二十六条には「―保護する子女に― 」という文言があるが、もしこの言葉が他の政府関係文書や法律にあれば、フェミニズム団体の抗議を受けるであろうし、八十九条に「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対しこれを支出し、又はその利用に供してはならない」とあり私学助成金がいくら形式をとりつくろおうと問題無しとは言い切れない。護憲派を自認するタイプの方々が、普通であれば文句をつける文言がありながら、憲法を不磨の大典とするために不問に付し、議論をする事も封じて来たのが戦後の歴史であった。
 昭和二十二年五月三日施行以来、最初の十数年こそ保守勢力の中には、憲法を含めた戦後体制は特別な状況であるという認識があり、自民党も網領に自主憲法制定を謳っていた。しかし昭和三十年代中頃から自民党も経済政策一辺倒となり、激しい議論を呼ぶ可能性のある憲法論議を避けて来た。

 平成七年の自民党新宣言作成においては、原案段階では憲法改正に言及しておらず、若手議員の強い主張により「国の指針となる憲法については、すでに定着している平和主義や基本的人権の尊重などの諸原則を踏まえて、二十一世紀に向けた新しい時代にふさわしい憲法のあり方について国民と共に議論を進めていきます」と、改憲論議を行う事を示唆する文言を、やっと入れる事が出来たという状態であった。

 しかし、このほんの数年で、時代は大きく変化した。成立から五十四年経過し、時代の変化、世界規模での環境問題への取り組み等、当時は考えられなかった新しい概念の出現にもかかわらず、そのままで良いのかという常識的疑問は、多くの国民が共有するものとなり、読売新聞の世論調査でも改憲を是とする数が多数派となった。昨年行われた民主党党首選挙に立候補した松沢成文氏は、「論憲を避ける精神的怠慢と政治的臆病を克服する」と主張した。この言葉は自民党の議員こそ真摯に受け止めるべきであろう。

 二月九日には、自民、民主、公明、自由、改革クラブの合意で、「憲法調査会」を衆院に設置する方針が決まった。やっと憲法改正を議論する環境と舞台が整ったと言える。いよいよ現行憲法のどこに問題があるのか、不備はないのか、といった事を国会で議論する段階に入ったと言って良いだろう。

 憲法の議論は、国のあり方そのものであるから、当然議論は広範に亘るであろう、しかしながら包括的に議論を進めると、いつまでも議論をし続けることになる可能性もあり、やはり項目ごとに順次議論を進める必要がある。そして最優先すべき重要項目は、九条の改正である、憲法第九条は次の通りである「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」この条文は、私の中学の国語教師が、美しい文章として崇めた「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある前文と密接につながっている。

 この前文の字句通りそのまま実行する為政者がいるとすれば、国民の生命と財産を守る責任を放棄するというまさに無責任な、かつ日本人以外はすべてパシフィストであるとする、宗教的信念を国民の安全を考えることなく押しつける危険な人物であると言えるだろう。

 もちろん、そんな為政者は現れず、又国民も望まなかった。現実の世界は、国連常任理事国である、米・英・仏・ソ・中すべての国がこの五十年の間に戦争に参加をし、今でも世界で戦火は消えていない、という事実を国民も知っていて、憲法もそうした常識=コモンセンスの上に成り立つべきと考えられ、前文も、第九条も、常識にのっとって解釈されて来た。その結果今日の日本が在ると言って良いだろう。

 その常識とは、それぞれの独立国には固有の権利として自衛権があるという事である。「固有」という事は、もともとある、つまり自然権(ドロワ・ナチュレール)である。国の基本法である憲法といえども自然権を否定出来ないし、しても意味がない。それは、空気を吸うなと法規に定めたとしても意味を成さないのと同じ事である。

 その解釈にのっとって我が国は自衛隊を持ち、安保条約も結び、さらに改定もした。だからと言ってこのままで良いとは私は思わない。やはりあの前文は、現実の世界とはかけ離れており、恐ろしく偽善的である。
 
憲法の明文ではなく解釈によって、国の安全保障を担う自衛隊を設置した事により、自衛隊の行う事は常に憲法上の解釈論に発展し、どうすれば安全保障を効率的に行うことが出来るかといった政策論ではなく、憲法上出来るか、出来ないかの憲法論となる。PKOの隊員の行う緊急時の判断も憲法を持ち出さなければならない。邦人救出に向かった自衛隊員が行う行動は常に憲法論議となる。

 憲法論議となる事によって引き起こされる対立とエネルギーの消耗を避ける為、政府も党も安全保障論議は忌避して来た。結果、安全保障に係わる立法はおろそかとなり、特に有事法制は恐ろしく不備であると言って良いだろう。現在でも自衛隊が行う行動は、憲法論でなければ法律論となり、実質的な安保論議とは程遠い状況である。

 現行憲法をそのままにしておく事によって生起する安全保障上の問題点は、具体的に言えば多々あるが、私が特に申し上げたい事は、アナクロ二ズムとの批判を恐れずに言えば、第九条及び前文(平和を愛する諸国民……の部分)の日本人の精神に対する影響である。
 現実の世界の中では、国を守る為には戦わなければならない時もある、という事を、そしてその為の組織=軍隊の存在と必要性を、憲法上まったく明示しなかった事によって、国民は家族を、郷土を、そして祖国を侵略者から守るという事をほとんど本気で考えること無く過ごして来たと言って良い。

 この五十年余で私達は命を賭けても守るべきものの存在を、生命尊重以上の価値の存在を忘れてしまったかの様だ。

 その間ひたすら経済成長、金儲けに邁進して来たが、その結果、将来国の為に何かをしたいと考える若者は全体の四十九%(先進国十一カ国中十位―総理府調査)、国の為に戦うと答えた人は十%という事になってしまっている。

 日本の安全保障を担う軍隊の存在は憲法に明示すべきである。一日も早く議論をスタートする責任が政治家にはあると思う。

 憲法に係わる問題で、安全保障上今すぐにでも解決しておかなければならない問題について、最後につけ加えて述べさせて戴きたい。それは集団的自衛権の問題である。現在の政府解釈は、日本は権利として、集団的自衛権を有するが行使出来ないとなっている。

 前に述べた様に、日本は自然権として自衛権を有する。第九条も自衛戦争に言及していない。よって自衛隊を創設した。この自衛権は国連憲章の第五十一条において個別的自衛権と集団的自衛権であると明確に定められている。一方、国連憲章第二条四項では戦争禁止をうたっている。国連憲章は日本国憲法よりも先に出来ており、将来の加盟を念頭におけば当然、日本国憲法も文脈としてつながっていると考えるべきであろう。

 権利はあるが行使については、政策判断で制約する、という事なら考えられるが、権利はあるが行使出来ないという事は誰が考えてもおかしな話である。行使出来なければそれは権利があるとは言えない。

 日米安保条約では前文で、集団的自衛権が両国に存する事を確認し、国連憲章では各国に集団的自衛権の在る事をうたっている。であるから、日米が共同で対処する際にも、PKOにおいても、現在の日本の解釈では綻びが生じる。現在の政府解釈は裁判所の憲法判断によるものではない。政府が見識を持って変更すれば良いのである。

 我が国の安全保障を真面目に考える事は、アジアの平和と安全につながるのである。

 吉田松陰の言葉に次の一節がある。「天下の大患は、その大患たる所以を知らざるにあり。いやしくも大患の大患たるを知らば、いずくんぞこれが計をなさざるを得ん」

 問題の所在は、わかっている。世論調査の結果も過半数が憲法を見直すべきと答えている。あとは政治家の勇気とリーダーシップだ。